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パリピとオタク、違う要素は?

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外国語の語彙と日本語の語彙

語彙力。大学受験で英語の勉強をするときに、センターには〜語、二次試験には〜以上あればいいという目安があって、それに沿って勉強したものだ。
また、中国語の勉強をするときも4級は〜語以上(忘れた)、と知ってそんなもんかと思った覚えがある。
じゃあ日本語の語彙力は?と考えたのは最近だ。

今までの人生で、この人語彙力があるなと思った人は一人くらいだ。
逆に語彙力がないと思った人と会ったことは割とある。

ここから得られることは、ネイティブだったら人によって語彙力にさほど違いはないということだ。
確かに大学受験のとき、英語は語彙をたくさん覚えさせられたものの、国語で語彙を勉強した覚えはあまりない。
専門用語っぽい、弁証法とか、畢竟とか、アイロニーとか、アイデンティティとか、ニヒリズムとかは覚えさせられた。

しかし普段の会話で使うことはあまりないので、そう感じることはないのかもしれない。
つまり語彙力は高レベルになってくるほど違いがあらわになるということ。

そもそも会話のレベルが低いと、語彙力が必要がないのだ。
ということは、日常生活では測ることができない・・・?

一見レベル高そうに見える会話が薄っぺらさを強調させる

また、語彙力が高いのがレベルが高いとは限らない。

前、哲学について話してる二人の人がいて、なんかウザさが半端なかった。
互いに知識を自慢しあっている、そんな感じがした。哲学について語っているのでなく、専門用語を使いたがっているようにしか見えなかった。
お互いに、知識の共有ができていなかったからだ。
ところどころでそれなに?と聞き合っていた。テスト対策にはなるかもしれないが。
お互い知っていることで、それについて前々から考えていたこと、疑問について語りあうというのならわかるが・・・。
語彙力を使いこなせていない、ということになる。
それを聞いていて、哲学がキライになった。哲学はそういう人間ばかりだ、恐ろしい学問だと思っている。

あと、ライトノベル『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』の玉縄君の「お互いリスペクトできるバートナーシップを築いて、シナジー効果を生んでいけないかなって」に代表される”意識高い系”のカタカナ言葉の多様。
現実にもたまにいる。
まあ意味があってるならそれでいいが、たまに「毎日がエブリデイ」式なことを本気で言ってるやつがいたりする。

ということで・・・むやみに語彙があればいいというわけではない。
しかし、だからといって語彙力は意味がないという極論は間違っている。

じゃあどうすればいいの?

齋藤孝『教養とは語彙力である』という本がある。
その本にでは教養が絵を書くときの絵の具の色で例えられている。

絵の色が多いほど、より本物に近く表現しているということだ。

この本の語彙力の鍛え方を読んでいるうちに、語彙力はただ単に難しいことばを知っているだけでなく、言葉の置き換えや、比喩、より現実をうまく言い表す言葉(難しい言葉である必要はない)を発想することだと知った。

あと、言葉の由来を知っていること(教養)も語彙力に入る。
上で大学受験のときについて述べたことを再び考えると、現代文に限定すると覚えた覚えはないが、古文や漢文でやったストーリーで、言葉の成り立ちのストーリーがわかるものがあり、それも広義の語彙力である。
一つの言葉が、ストーリーを想起させるのであれば、それも語彙ということなのだろう。

また、『超一流になるのは才能か努力か?』で言及されていた、文章術が上達した例で、ベンジャミン・フランクリンの例が引用されていたが、そのなかで語彙力が足りないと感じたので、語彙力をつける練習をつけようとした、というのがあった。
だから、読む前から文章上達において語彙力が大きな要因であることを知っていたので、この本の内容はすっきりと入ってきた。
文章を書くとき、話すときの両方で、語彙力は生きてくるのだ。

つまり、語彙力ひとつで、毎日インドアオタク野郎にも、毎日アウトドアパリピ野郎にもなれるわけだ(両方になることもできる)。
すごく乱暴にいって 、オタクは語彙力がない。パリピには語彙力がある。
全く違う人種を分ける意外な接点を感じると同時に、オレにもチャンスは・・・。

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