方法論 私見

名作廃道レポートに学ぶ文章術

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文章の価値は、1.希少性のある情報を、2.どれだけ正確に、3.物語に織り込んで伝えられるかで決まる、と思う。
素人の文章は、その3つの面で素人と言える。
駄文は伝える価値のある体験や情報をそもそも持たず、伝わらない、そもそも読む気が起きない、というわけだ。
だがインターネットの文書は物語のない無味乾燥な情報(Wikipediaとか)と、下手くそな素人の無意味な文章で溢れている。
悪く言っているわけではない、検索のニーズは満たすからそれで当然だと思う。あまり金にもならないしね。
ちなみにこのサイトは、言うまでもなく後者(自覚はある)。
ただし、今は。経験と努力と分析を積めば、いつかは…と思っているが、いつになるかはわからない。

ところがそんなインターネットにも宝石が混じっている。
廃道冒険記サイト「山さ行がねが」はネット公開されている文章の中で、最も優れた文章の一つだと思う。
単なる検索ニーズを満たすだけでなく、かつてなくワクワクさせて楽しませる。
インターネットの文章でこんなドキドキしたのは初めてだった。
というか本でも、小説以外でこんなドキドキしたことはない。
名門でビッグなサイト様であるので何を今さらと笑われそうだが、スゴすぎる…。

どうして優れているのか?を希少性、正確性、物語性の3つの視点から主張していく。

希少性のある情報だから

希少性のある情報が含まれていることが文章の価値だ。
廃道という基本的に人が触れることがないものには希少性がある(コロンブスの卵だが)。
しかしそれだけでは大して価値はない。
希少性を見出すにはそれなりの知識が必要である。
ただしそのまま出すのは磨かないダイヤのようなもので、普通の人には石炭と違いがあるようには見えず、
その調理の仕方も問題になる。

知識に基づいた観察力がある

お決まりのパターンと言えば、地図を示し、ここに廃道がある!行ってみよう、それで廃道の真相を掴むというパターンだ。
道中様々な物を見つけ、目的地まで到達し、残されたヒントから道路が廃された理由まで探っていく。

普通の人ならスルーしてしまうであろう道路の遺構からは、様々なことがわかるようだ。
例えば路面から設計思想を読み取り(長期or短期供用、工事車両用など)、捨ててあるゴミから年代を探る(!)。
それらは単なる断片的な情報ではなく、情報の正確さを検証したり、そこから発展させ仮説を組み立てる。
廃道からそんなことまでわかるのか!と驚愕させられたあと、ありし日の姿がありありと浮かんできてドキドキワクワク、次のページへ…(止まらない)。

多チャンネルな机上調査で鮮やかな解決

現地調査と聞き取りだけでは真相がわからず(むしろ謎が深まる)現地レポートのあと、机上調査に移ることもある。
例えば神津島の回では、ある時期地図に存在した、山頂付近の孤立道路と巨大建造物が地図上から消えたのを調査に行ったのだが、結局孤立した道路と重機以外何も残されていなかった。
現地住民は蚕の生産工場らしい?といったが、「ヨッキれん」(作者)は納得しない。
すべて引き払われていたことから何かいかがわしいモノの生産をしていたのではないかと疑う(読んでてスゴいワクワクした)。

そこで机上調査。
年代の違う衛星写真、地形図、年鑑、議会の議事録、日本の農業政策…から真相にたどり着く。

そしてダメ押しの、読者からの情報提供による当時働いていた人の取材と写真。
不自然さの謎が解け、すべてがピタッとはめ込まれていく…。
上の項目の観察力は、疑問を掘り下げる力とも言える。
掘り下げたものを多チャンネルな机上調査、専門知識によって鮮やかに解決していく、そして希少性が生まれている。

正確性があるから

ここでいう正確性とは、「彼は30秒かけて50メートルを北北東に移動した」ということではない。
視覚→文字の変換でロスする部分をなるべく少なくしようとすることだ。
「ヨッキれん」の見ている風景がそのまま伝わるような工夫のことだ。
風、温度、感触、雰囲気、明るさ、震え…そういうものをインプットした上で見る写真はリアリティがある。

たくさんの画像、加工でわかりやすい

画像が多用され、文章とともに状況の把握がしやすい。
さらに画像に線を入れたり、ズームアップしていることで非常にわかりやすくなっている。

上で視覚→文字の変換と言ったが、同じ写真でも前提が違うと意味がわからないことが多い。
特に極限状態(高所など)でカオスな廃線を写した写真ならなおさらだ。
草道から飛び出た線路など、写真ではなかなか見えない。
仕組みはわからないが肉眼で見た映像とカメラの映像は異なり、カメラの映像は 遠く見えるのが原因だと思う。

地図・衛星の時系列に応じた比較でわかりやすい

地図や衛生画像にも線を入れ、どこまで来たかを詳しく解説しながらレポートを進めている。
すごい労力だと思うが、これがないとストーリーがかなりわかりづらいものになり、仮説もわかりにくくなり、写真の持つ意味も薄れていく。

廃道だけあって通行不可、迂回はしばしばで、危険だがここを渡るしかない!という境地の絶望感もひしひしと伝わってくる。

専門用語が細かいニュアンスを伝えてわかりやすい

性質上、道路やトンネル、地形の専門用語が頻出する。
「ロックシェッド」「ズリ捨て場」「安息角」「海食断崖」「ラグーン」などなど。

それらの用語は単に描写のためだけでなく、たいてい別の重要な意味を持つ。
当然オタク的、内輪な符号(ジャーゴン)ではない。
ヨッキれん自身の命の安全確保という切実さ、過酷な任務を負った道路を表現する言葉なのだ。

例えば「ロックシェッド」は岩石対策のために道路に被せられたコンクリート製の構造物だ。
といってもわからないので、画像(Wikipedia)。赤い鉄骨の部分。

ロックシェッドがあるということはそこが落石の危険がある場所であり、それでも道路を通す必要性があったことがわかる。

「海食断崖」は陸地が波の侵食で切り立って形成された地形だ。
波が激しく磯のように海面付近からの接近、登攀は不可能だということをよく表す言葉だ。

専門用語は読者にも事前知識を必要とするが、切実な環境においてその効果は計り知れないものがある。
調べながら読んでいくうちに、自分も詳しくなっているのに気付いた。
理解したいために、必死に調べるのだ。

知識を自然と要求した上でここまで読ませる文章はどれくらいあるだろうか?
たいていは権威にふんぞり返っているか、まあ適当でいいかと文脈のままに読むものだ。

物語性があるから

作家村上龍はエッセイで「情報を物語に織り込むこと」が小説家の仕事だと言っていた。
普通の人は読み続け理解するために物語が必要だ。
辞書や百科事典を読み通せる人はほとんどいない(たまにはいる)。
「山さ行がねが」の廃道踏破はさすが廃されただけあって、たいていは一筋縄では行かない。
それでも二の矢・三の矢のアプローチをし、達成していく、ストーリーがある。

仮説と検証がストーリーを生む

最初から細かく調べることはせず、まずは地図上で位置を確認して、行ってみるという方針らしい。
実地で様々なヒント、違和感、疑問を得て仮説を立て、調べてみて確認する。
調べた情報と突き合わせて確認するので非常に説得感があり、調べた情報を補完したり、公式情報の誤りを見つけることもある。

実地でヒントを確認できず疑問だけが深まった場合でも調査で疑問点を解消する。
実地での着眼点、調査の方向性すべて必然性が明らかで、ストーリーがあってやめられない止まらない。

熱のこもった文章で面白い

上ではカタいことばかりを強調してしまったが、廃道愛のアツくのこもった文章の振れ幅が大きく
これがなかったら論文みたいになり印象は大きく変わるだろう。

各パラグラフには時刻が表示されている。
刻一刻と状況が変化していることを伝え、状況によって文章は全く変化する。
素晴らしい景色、廃道愛をくすぐられるような情景に興奮していたら文章は走り素晴らしさを力説し、人間の小ささを悟り、ときに文学的な趣さえする。
ゆく道ゆく道がめちゃくちゃに崩壊しているときは絶句、危険がない場所では軽い調子の文で、重大な発見や失敗をすると硬い文になる。豊富だ。

写真とともに、感情の変化まで表現されていることが臨場感を高め、廃道体験を実地で体験するヨッキれんを追体験することができるのだろう。

レイアウトが豊富

画像と文章が高度にリンクした構成であることは述べたが、それを支えているのがレイアウトで、ふたつを自然と行き来できるように配置されている。
スムーズな文章展開を維持したまま画像へ誘導し臨場感を高めているわけだが、どうしてこういうことができてしまうのか、よくわからない…(超人か?)。
ほかにこういうレイアウトをしている文章を見たことがない。
微妙なバランスで成り立っていて、マズくやると明らかに大火傷するスリリングなレイアウトだと思う。
リスクを取っても快楽(廃道)を得る。
スリリングさに馴れているとできるようになるのかもしれない。

文字の太さ、サイズ、リンク、色も非常に特徴的で変化があり、臨場感に寄与している。

コンセプトが明確

「廃墟」好きとは明確に違う、「廃道」で徹底的に情報が集約され、コンセプトがズレていない。

「山行が」の歩き方』によると…「それは歴史です。あらゆる道には歴史があります。通行するだけで目に見えるもの、見えないもの、そんな様々な歴史に光を当てることも、私の大きな興味です。」
とある。
廃道歩きとはヨッキれんオリジナル独自開発の概念だが、その面白さを自分は知っているため誰かに伝えたい、という大コンセプトがまずあるということだ。
文章と画像は伝える手段の一つに過ぎなくて、まず伝えたい情報を持っている。
非常に徹底的なわかりやすさ、圧の高さのモチベーションになっているのは明確なコンセプトだ。

伝わりやすいのは、書き手にとって目的が明確であるからだ。
読み手はそういうコンセプトの存在を意識しないが、わかりやすさと熱意を受け取り、素晴らしさに驚く。

結論…文章術云々というより、伝えたい情報を持つことが大事なのだと思う。

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