鹿児島に住んでるものの、離島には最近まで行ったことがなかった。
去年の屋久島がはじめてくらいで、それ以外には一切ない。
というかそもそも、県内の観光名所でさえロクに行ったことねえな。
ただの旅行しない人、といえばそれまでなのだが、オレは5ヶ月間で北京市内の観光名所約100箇所地下鉄とバスを駆使して、ほぼ一人で回った男なのである、なぜ20年近く住んでる鹿児島の名所にほとんど行ったことがないのだ?
家族とサークル以外で行ったためしがない。
北京であんなに燃やした情熱が、こと鹿児島、日本ということになるとさっぱり現れない。
しかし最近奄美に旅行にいったことで、それを変えるようなヒントが発見できた。
それは旅行するところが、自分の常識とは異なる文化を持っているのだ、と認識することだ。外国にいくつもりで。
県レベルとかじゃなくて、地域レベルでね。
日本だから同じである、と考えているとあまりおもしろくない、ここは外国なんだと考えることでいろんな発見ができるし、おもしろくなると思った。
そもそも日本だからすべて、ほとんど同じと考えるのは不自然だ。気候も南と北でゼンゼン違うから風習が違うに決まってるし、距離があるから言葉だって違うに決まってるし、国って明治政府が作った概念的なものでしかない。
民俗学を講義でちょっとかじってみたらスゲエおもしろかったし、役に立った。こういう新しい視点で見れるようになるのって、いいよね。義務教育でそんなのあったっけ?
逆に歴史なんて知ったって何になるというんだ、自分の生活となんの関係もないし、知ったところで生かせないし、現実の出来事と実感できないし、歴史にのらない人たちについての想像が貧しくなって、それが自分自身の生活だとすぐ気づいて、自分の属している社会についての愛着がなくなって、どこも東京の劣化コピーみたいなものになる。
それでいて 東京には独自の文化を感じられず、田舎の集合というかんじがする 。カネはあるけど。
それでいて田舎人のほうが東京を崇めてる んだから気持ち悪い。
鹿児島人はあらゆる言葉がなまってる、帰省した友人がよく言う(そういう奴は久しぶりに会うと得意げに東京弁で話す)が、だからどうした。
日本人は同じで当たり前、という前提があるから、方言が話題になるんだと思う。オレもそう思ってて、国内旅行いってもどこもかわらねえなとか思っていた。
だがちょっと良く見るとムリヤリ同じにしようというベクトルは感じるものの、まったく違い、日本人は概念にすぎないということがわかる。
年代の違い、社会的地位の違い、住んでる場所のちがい、学歴の違いでまったく違うにもかかわらず、概念として日本人というだけで同じようにくくれるのは逆にすごい気もする。
東京人がどう思ってるのかしらねえけど、それを危惧すること自体が田舎臭くて気持ち悪い、卑屈なものを感じる。
東京が見下すというより、田舎が東京を崇めてる のに気持ち悪さを感じる。
模倣する対象がよかったらまだいいと思う。
大阪や京都のほうが魅力的だ。
話を戻そう。なんかよくわからなくなってきた。
奄美は、九州本州四国北海道の、ほかの代わり映えのしない地方とは違うところがけっこうあって、それでいて独自の文化に自信を持っているかんじがした。歩いてて自分の常識とは異なる点をいくつも見たし、地元の人がどんなふうに生活してるのか、見てておもしろかった。
話しネタになる
旅行は記事ネタにもなるし、人との話のタネにもなる。映画や小説も記事のネタにはするものの旅行と全く違うのは人との話のタネにしづらいことだ。
むこうが知ってないと盛り上がらない、知っててもうまく盛り上がらないときも多い。
単におもしろいよね、 ヤバイよね で話が終わってしまうのだ。
結局なにがおもしろいのかお互いわかっていないし、作者の意図した?おもしろさをなぞっている、消費しているだけであって、その敷かれたレールを走っているだけで、それを確認するだけでなにもおもしろくない、盛り上がらないというわけである。