村上龍 読書

平凡な人生の見本市―『ライン』

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あらすじ

章ごとに主観となる人物が、接触によってコロコロと代わり、総勢十数人のそれぞれの物語が語られる。
例えば比較的裕福なサラリーマンが風俗嬢を呼び過去を思い出しながら、嬢を観察する場面から、急に嬢に主観が写り、サラリーマンを観察し嫌悪感を覚え、全く違うことを考えている。
そしてこの風俗嬢が外へ出てまた誰かと話し、主観がチェンジ…といった具合に。

それぞれの人物が紡ぐ物語はどこに着地するのか?

しりとり小説

主観がコロコロと変わる感じは「しりとり」のような感じだ。
新しい試みであることがわかる。
いつの間にか、よくわからない絶妙なタイミングで変わり、『ピアッシング』の感じに似ている。

接触し主観が入れ替わるのは友達だったり、入った店の店員だったり、その場ですれ違って声をかけただけの人なのだが、共通点はある、電話線などのコードから送信されている情報を読み取り音や映像として脳内で再生できる女が共通して出てきたり、家庭環境が悲惨だったりすることだ。

それぞれの退屈で平凡な人生がリアル

幼少時の家庭環境がその人の人格に与える影響、はよくテーマとして登場する。
たいていの場合主人公は様々な出来事から、結果的にであれよく考え抜き、自分なりの解決策を見つけ、折り合いをつけていく。

しかし、この作品はどうだろうか。
単に過去と今までの人生について振り返り、認識しているだけで、何か解決していくことは一切ないし、事件が起こることもない。
約一人、ヤバそうな状況の人がいたが、本編中で語られることはなかったし、物語全体に関係はない。

何しろ20人近く主観となる、悲惨な家庭環境と過去を持つ人物がいるものだから、いちいち解決していくことは不可能だ。
しかもそれぞれの人物の関係は偶然その場にいただけとかで、関係性は限りなく薄い。

徹底的に、普通の、何も起こらない人生を、主観を移動させて観察しているだけなのだ、何か力が働くことは一切ない。
それぞれの人生に取るに足りないにせよ歴史があって、大変だと思うことがあって、過去に縛られていて、コンプレックスがあり…私の人生もそんなもんで、たいていの人にとって人生はそんなものかもしれない。

小説や映画はドラマチックで波乱とストーリーのある人生が素晴らしいと主張する。
もちろんそんな人生を生きていない私は、自信が持てない。

普通の人生を紹介した作品は作品として成立しないが、逆に聞いたことがない、たいていの人に当てはまるが供給は少ないもの、は工業的にはよく売れる。

この作品はこういう人生が普通ですよ、退屈でしょ、ということを主張しているように思う。
それくらい退屈で、起伏のない作品だった。
でも当然、それで悪い作品ではないと言うつもりはない、むしろ私にはグサッときたし、今までにこういうのを読んだことがなかった。

面白いかつまらないかではない、毒や主張があるかが重要だ。

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