村上龍 読書

美しい音楽や、生きていく希望が必要ではない理由

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野生動物は美しい音楽を必要としない。
人も音楽を聞かなくて死ぬということはない、美しい音楽というものは必要性がなく、さもしいのだ。
村上龍『音楽の海岸』は必要性に支えられた狩猟民的な男の物語である。

あらすじ

素質のある女を飼い、男たちへさまざまなプレイの斡旋をすることによって生活するジゴロ、ケンジ。
高度に正確に言葉を操り女の信頼を勝ち取る。
言葉を稼業の武器とし、必要性のない美しい音楽を嫌っていた。

彼は高額な報酬と引き換えに、ある男を破滅させてほしいと依頼され、その高度なテクニックで巧妙に罠を仕組んでいく。

高度なコミュニケーションの末の絶望

正確なコミュニケーションは、基本的によいことだと思う。
「やばい」「やばいね」では何も伝わっていない。
しかし正確に伝えようとしたところでどうなるのだろうか?
むしろ言葉では伝わらず、永遠に理解されない違う人間であることが明確になるときもあり、それが精神的に弱っているときに重なると致命的になることもある。

必然性に基づいた、慎重で正確なケンジの言葉

ケンジの言葉は、慎重で正確であり、それは彼の過去の出来事に基づいている。
必要性に基づいた正確な表現、言葉は女を惹きつけ、彼自身もその能力に対して誇りを持っているように思う。

結果と金を手に入れた末のケンジの分裂

あっけないほど罠はうまくいった。
それまでの描写が嘘のように、異様に簡潔にうまくいった。
連載の都合なのかと思ってしまうくらいだ。

騙した人間や巻き込んだ人間たちに罪悪感は一切なかったが、何かがケンジを苦しめ、結果、分裂病気味になる。
高度に言葉を操り、演じ目的を達成するのにめり込みすぎ、別人のように感じてしまう。

他人に救ってもらえないことに気づく

自分が他人のようで女たちに自分を救ってもらうことはできないし、妹が力になれることもない。
生きていくための個人的希望は、誰かへの働きかけと反応であって、気にかけられることではない。
そういう元気がないくらい弱っているときは、どうしようもない。
自分で立ち直るしかない、ということを認識し、無力感を味わう。

必要性がないから生まれないもの

ある国や地域で社会的にないものは、必要性がないという説明で理解できる。
芸術、文学、スポーツ、厳密なコミュニケーション、美しい音楽、希望…。
しかしここ最近60年で変化したもの、自明ではないもの、社会的にアナウンスされていない…、と様々なバリエーションがあり正確に認識するのは難しい。

美しい音楽は必要性がない(ケンジ)

ケンジは野生動物に音楽が必要ないように、人間にも必要性がないということで美しい音楽を嫌っていた。

生きていく希望は必要性がない(妹)

文脈的には、生きていく希望は日本に必要なく、存在しないから奪うことはできず、ケンジのやったことも気にする必要がない、ということだった。
文面で『希望の国のエクソダス』この国には希望だけがない、に通じるものを感じるが、意味は異なる。

生きていくための個人的希望は、誰かへの働きかけと反応。(反対に誰かから気にかけられることは希望にならない。)
つまり妄想になり、それを一般的な形にしたものが音楽である。
だから音楽もアーティストにとって希望的側面を持つはずだが、この国にはないので生きていく希望が必要ないのではないか。

(①個人的希望=②誰かへの働きかけ=③妄想=④音楽)
よって(①音楽がない=④個人的希望が必要ない)も成り立つ。

つまり、日本に希望は必要ない

この物語では美しい音楽の必要性のなさ、相手に働きかけることが希望、ということから、日本に希望が必要ない事実を指摘している。

ケンジは正確で多彩な表現、言葉、概念を追求し正確な認識を手に入れる。
正確な認識は、正確な言葉により獲得され、それを考えることは生きる上で無駄ではない。

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