あらすじ
いつの間にか見知らぬ場所で、異様な雰囲気の行進に紛れ込んでしまった小田桐。
紛れ込んだのは、日本が降伏せずゲリラとして戦い続けているパラレルワールド「5分後の世界」だった。
常に生存の危機に晒されるなかで、日本国民は誇りを持ち、世界から尊敬を集めていた…。
『ヒュウガ・ウイルス』と同じ世界だが、同じ人物はほとんど登場しない。
厳密に構築された世界
歴史はこの小説で重要な要素だ。
具体的な歴史そのものは日本の教科書を見るという形で、精密に描かれていた。
条件部分、もし日本が降伏しなかったら、…を出発点に、社会が描かれていく点で、SFの形のひとつといえる。
もしまだ日本が降伏していなかったら云々…というのは誰でも考えつくが、そのIFを、具体的に、その影響下にある国民や兵士、非国民、…を通じて書くのは恐ろしく想像力と技術と知識のいることだ。
地下に潜り、ゲリラになるなんて書かれたあとでは、日本が降伏しなかった場合の必然に感じるが、別に必然的ではない。
考えて見れば今の日本とか社会とか必然的なもののように感じてきたが、けっこう特殊な歴史ルートな気がする。
なかった歴史について考えるのはムダかもしれない。
が、必然だと思ってもいけない。
歴史は研究や資料の発見によって次々と変わる、小学生や中学生の歴史の教科書の一部が変わる、ということはよくある。
正確に、客観的に把握しているような書かれ方だが、実は小説のように、何か発掘されたものに基づいて、想像力でそれらを糊付けしたもの、というのがより正確な認識ではないか…。
教科書が絶対確実だと思っていては、歴史のダイナミズムは理解できない。
確実性のない、特殊ルートの積み重ねが今を作っていて、静的なものではない。
呪縛からのがれ、そういう不確実性を認識するためには外側を知ればいい、つまりこの小説だ。
外側から見ると、今の日本が、辿ってきた歴史や、今の文化がいかに特殊なものかが、わかる。
現代日本の異様さを客観的に理解する
もう一つの日本と比較した、強烈な批判がある。
「5分後の世界」の日本は決して理想社会ではないが、誇りを持っていたり、ムダで奇妙な文化、コミュニケーションはなく、世界の誰にでもわかる方法での主張の力を理解していて、英語に強い。
「5分後の世界」の日本にはまず伝えるものがあり、伝えないと生き残れない。
多くの日本人が英語ができないのは、必要性がない、伝える情報もないし、それで生き残っていくという意識もなく、実際海外駐在員でもない限りそれで死ぬことない状況があるからだ。
村上龍は、だから英語ができるようになれ!とか誇りを持て!とか言っているわけではない。
多くの小説に共通するが、それは各個人がやることで、まず醜悪で奇妙な状況を認識しろ!と言うにとどまる。
万人にあてはまる正解はないが、万人にあてはまる問題はある。
問題は共通だが、どう対処するかは異なる。
そこらへんの距離感が、村上龍の作品を好きな理由かもしれない。
究極の戦闘描写
社会的なところばかり書いてきたから、もし読んでない人がこの文章を読んだら『1984年』的な小説だと思うかもしれない。
が、それと反対な、時間的に極めてマクロな戦闘描写が約半分を占めている。
例えば最初のヘリボーンとの戦闘は時間にしては短いが、描写する密度が異常に濃い。
当然読んでいて時間が長く感じるが、命の危機がすぐそばにあり、アドレナリンがドバドバ出るような状況というのは実際同じような感じになるのかもしれない。
究極の状況では、価値判断は一切なく、ただ殺す、殺される、だけだ。
よく「野火」なんかを読まされて、戦争は悲惨だ、みたいなことを刷り込まされるわけだが、それは物事の一面(兵站消失=飢餓)しか見ていない。脳科学物質のもたらす最上の歓びを無視している。
緻密な、時間が伸びるように感じる描写は、ものすごく、実際の1%くらいであれ、戦闘の興奮状態にある脳内の疑似体験をさせる、麻薬小説の一面も持っている。
よって大雑把に言えば、「社会SF+脳内物質体験小説」…、恐ろしく鋭く、戦争とは何か、社会と個人の両方から伝える小説といえる。