村上龍 読書

残酷なほどの美しさ、醜さを認識する―『KYOKO』

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あらすじ

幼い頃アメリカ軍基地の街で育ったトラックドライバーのキョウコは、黒人兵士からホセからダンスを習い、それをきっかけにしてダンスをその後も練習を続け、驚異の領域に進化していた。
13年後、キョウコは彼に会い感謝を伝えるために渡米する。
彼の消息を辿るためにアメリカを旅し、出会い、驚嘆させていく。

主観を変え、同じシーンを再現する意味

各章で語り手となる人物が変わるが、基本的に同じ出来事を複数の視点から描く。
キョウコと他の人物では全く感じていることが異なり、彼女の異質さが目立つことになる。

村上作品でこのタイプはほかにもある、例えば『最後の家族』は同じように同時系列の複数人で物語が語られる。
ただし意味あいは全く異なる。
『最後の家族』においては家族で担う役割が異なる、例えば父親らしさ、母親らしさ、みたいなもののことだ、役割においてのイベントの受け取り方の違いやすれ違いを強調して描くための方法で、じつに見事だったと思う。

しかし今作は基本的に旅と出会いの物語であり、すれ違いや考え方の違いなど描く必要がない。

理由はキョウコの美しさを客観的に描くためだ。
そして本人はそれをなんとも思ってない、真の美しさは本人の意志とは無関係なところで起こる、ということを表現するためだと思う。

文章表現への挑戦

複数の視点と描くのは情報密度という意味で映画的とも言える。
基本的に文章では、同時の動作や思考は表現できない。
シーン全体を映せない。

例えば酒場でキョウコが突然踊り、その場にいた全員が驚くというシーンは映像ではなんとなく表現しやすそうな気がする。
が、文章ではしにくい。
全員の表情を神の視点というか、語り手が誰でもないので描くことも可能だが、なんだか間抜けに感じるし、主観的な驚きを表現しにくいかもしれない。

違う視点から同じイベントを描写し直すことで、文章で同じシーンの全体像が伝わる。
そういう意味もある、技法だと思う。

オーラ+美しい+技術を持った完璧な女の子

キョウコは徹底的に理想的な?、美しく自立した女の子として描写されている。
旅の前後で特に変わることはなく、一貫して強い。

小説はたいていの場合、語り手が何らかのイベントで心理的に変化することを描くものだが、本作では周囲が変わる様子を描いている。
他人を救うことはできないが、自立した生き方を示し変化を促すことはできる、ということを示していると思う。

そうした彼女や彼女の一貫した生き方の美しさの根源は何なのか。
ダンスだ。
ダンスという一つこれさえあればいいというものが、ほかの完璧な点を作っている。
逆にそういうのがない人間は醜く、優先順位がなく迷う。

優劣を言っているのではなくそういう2種類の人間がいる、という事実を伝えている。
そして、1つのものを持っている人はレアで、多くの人は違いがあるということに気付かない。

私も現実に会ったことはない。本当にいるのかな。

最後はファンサイト上の感想文を掲載…気持ち悪い…

巻末にはファンサイト上に投稿された一般の感想文を掲載している。
『村上龍映画小説集』と同じだ。

…読むのがきつい!
まずほとんどの文章が下手くそだ、何を伝えようとしているのかわからない。
投稿された文章はそのまま加工せずに載せたらしいので、ありのままの下手くそということだろう。

そして何より…自分の文章を見ているようなのがきつい。
伝えたいことが明確なのか?ほかの人間に伝わるように考えているか?NO。
コツコツ書いてきたのでなんとなく文章も成長したように考えていたが自己満足、ただ文字数を見てニヤニヤしているだけだ、全く変わっていなかったのだ。

悲しんでも仕方ない。
一晩経ってやや客観的になって、素晴らしい文章、醜い文章を含めての小説なのかもしれない、と思った。
キョウコとその他の対比が文章でも行われている。

キョウコは村上龍の文章、『KYOKO』の本文で、
その他大勢のアメリカ人は巻末の感想文、そして何より読者、なのではないか。

物語で語られる美と醜の象徴的な対比は、いつの間にか自分に向けられている。
強烈な威力があって当然だ。

巻末も含めて、『KYOKO』という作品だ。素晴らしい。

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