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『硫黄島からの手紙』がアホっぽく見える理由

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映画などでシリアスなことを描いているはずなのに、アホっぽく見えることがある。
シリアスなことほど、ディテールが追いついていないと白ける。

命がけの運動、ギトギトした汗につく汚れ、銃弾が飛び交いめり込む音、舞う砂、揺れる地面、狭い塹壕、撃たれ傷つく仲間の表情…
実際の戦争を知っているわけではないが、見るうちにディテールに驚き圧倒され取り込まれ、映画の中の人物と同じように絶望し歓喜する。

『硫黄島の手紙』は、太平洋戦争末期の「硫黄島の戦い」を描いた映画である。
「硫黄島の戦い」は激戦として知られていて、史実としてはシリアスそのものなのだが、映画からはアホっぽい雰囲気が終始漂っていて、どうも集中できなかった。
その理由を考えていく。

アホっぽく見える理由

戦争に詳しいわけでもないが、武器や戦車、戦闘シーンは違和感がなく、よく出来ていると思った。
しかし平時の役者たちの演技は違和感があり、アホっぽく見えた。
アホっぽく見えるというのは、うまく映像の中に没入できず、滑稽に見えるという意味だ。
後で知ったのだが、これがアメリカ映画だということが関係しているのかもしれない。

この映画は、「アメリカ映画にしては」日本人が正確に描写されているという点で評価されているようだ。
アメリカ映画なら、アホっぽく見えるのも意図的な表現の一部なのかもしれない、と思った。
日本で作られたものなら、結果的にアホっぽくなってしまったとたぶん言えるのだが、アメリカ映画だとわからない、別の理由があるのではないかと考える。

役者という観点で3つ、アホっぽく見える理由を述べていこうと思う。

主人公?の二宮の不適格さ

嵐の二宮和也が語り手の下士官役で出演している。
なんというか戦争や暴力、泥と最も遠いところにいる人な気がする。
彼の演技が悪いのではなく、彼の持っているイメージというか、属性が合っていない。

切実さがない

アイドルは偶像で、泥臭い努力や老化やウンコなど、具体性と生活感があってはいけない人種だ。
当然実際は努力してんだろうけど、イメージとして。
まして切実さなんて一切あってはいけない人たちで、いきなり戦争の演技なんてできるわけがない、稼ぎ生きる上で必要でないのだから当然だ。

染み付いたイメージ

日本人視聴者には、既にイメージが出来上がっているので、彼がいかに迫真の演技をしても客観的に見ることができないのだ。
私の場合、テレビ番組でキャッキャ言われてボウリングをやっているイメージが強いが、たぶん他のドラマでも似たような感じだと思う。
アメリカ人が見た場合、既に出来上がったイメージなく、いい感じに見えるのだろう。

キャラクターの一致

嵐というグループの中での立ち位置として、なぜかよくわからないのだが斜に構えたイメージがある。
映画の中での役も、斜に構えた下士官で、ときおり説教臭い言葉を言ったりする。
主人公のイメージと、二宮像が一致してしまって、やはり染み付いたイメージが想起され、バラエティ番組から迷い込んできたような感じになる。

典型的なダメ上官

恐ろしく棒読みで典型的なダメ上官が、不自然極まるものだった。
日本的集団で上に媚び下に威張るダメ教官がいたことは今の社会まで綿綿と受け継がれていて簡単に想像できるが、およそ人間性を感じない。

そもそも昔の忠実な再現はアホっぽく見える説

昔の映像や、画像を見るとシリアスなシーンでもアホっぽく見えることがある。
同じ日本でも、つながりをあまり感じない。

『硫黄島からの手紙』では最初と最後で現代と当時をつなぐ「手紙」が登場するように、時系列を意識しながらも、美化やステレオタイプを配してありのままを再現しようとしているように見える。

するとアホっぽく見えるのは当然という感じもする。
現代に合わせて表現すればアホっぽくはならないだろうが、現代の常識に合わせて映画を作ると正確な再現とは言えない。

今画像で1980年代のファッション画像を見てみると、30年前すら信じられないほどダサく見える(90年代はかなりマシになる)。
アホっぽく見えるのは当時の再現に忠実で謙虚であれば当然とも言えるかもしれない。

★ ★ ★

ということで、理由が色々あってアホっぽく見えてしまう。
確かなのはそもそも私の中に戦争映画はシリアスでアホっぽくないという隠れた前提があり、その前提は間違っていた、ということだ。

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