コミュニケーションスキルと社交性は別問題
よく「コミュ障なんで」と自虐ネタを聞くが、アレにどう対応していいかわからない。
いやそんなことないですよ!と言わないといけないのかめんどくさ、と思いながら対応している。「確かにそうですね」とは言ったら怒られそうな気がする。
「そんなことないですよ」待ちとは言え、自分コミュ障ですと言う人は多く、本当にめんどくさい、もっと上(下?)はいますよ、と言いたい。オレのほうがコミュ障ですよ、と自虐合わせ?もすることもあるが不毛だ。
流行語的に意味が拡大し濫用されているとも言えるが、実際人との関わりは減っているというか、必要になる場面がほとんど想像できない。
東日本大震災でやたら「絆」がフィーチャーされたのも、普段ないことの裏返しで、災害時くらいしか、必要にかられないということでもある。
必要になる場面がなくなるのと同時に?、動機、欲望もなくなった。
いつでもラインはじめネットで人と繋がれる時代で、いつでもアクセスできることが、人との関わりへの欲望を薄くしている。モノが溢れて欲がなくなったのは、人でも同じだ。
コミュニケーションそのものより、その原動力になる欲望がない。一方で初対面でも人と話すときには普通に話せる。
だから、社交性がないという言葉が自分の場合ぴったりくるのだが、コミュ障と自称している人の多くはその成分が多少あると思う。
学校教育のなかで必要なかった、自主性からの人間関係
初めて人と関わる原動力の重要性を感じたのは、大学に入ってからだ。
それまで属した社会集団、つまり学校では教室で毎日会うことになるので、自主性というのはそれほど重要ではない。さらに唯一の社会集団であるためある程度うまくやっていこうとは思い、相手も同じなのでうまくいくことが多かった。
しかし大学になると、いや大人すべてに当てはまることだが、そういう必要性はなくなる。
ということで、ルールの違いに困惑したが、結論としては何も動かなくて問題なかった。一人でも生きていけるタイプなので、約3ヶ月バイト以外で言葉を発しなかったこともあるが、特に問題なかった。なので生存上の最低限人と話さなくては死ぬ、という理由も特にないと認識した。
何も問題なかったが…
特に問題はなかったのだが、ある人と話したときに、かなり刺激になり、こういう楽しみ方はありだな、と感じた。
政治、仕事、世の中の空気…などいかにも大学生らしい、頭でっかちなことを話したわけだが、さまざまな実体験や知識に基づいて自分の意見を言い、私の意見と照らしあわせ思想の違いを確認した。話の過程で家族構成や来歴についても話し、彼についてよく知ることとなった。
そして思考と言葉だけでなく、多くのことに挑戦し、いろんなスゴい人と話していた。
人と話していてほとんど刺激(+嫉妬)を感じたことなど今までなかった。
その人は同世代(1つ下)で、東京に住んでいる学生だ。一方自分は地方にありがちな競争力のなさを普通のことだと思っていたから、東京の競争力が生み出していると考えられる、しっかり意見を言うところや、違いを尊重するところに対して驚いた。
日本全体が衰退しているというより、競争力のない地方から気付かない内に衰退しているのかもしれない。
ということで話がズレたが、人と実際に関わる必要性、方向性を認識した。人と関わる意味は自分で見つけないといけないが、自分の場合、表面的には同じに見える、意見・感性の違いを認識させる面白さを感じるので、そこを追求していこうと思う。
例えば映画をおもしろいといっても、どこがというところは違うし、誰に注目したかもまったく異なる。そう感じたのには理由があるはずで、そこの違いを追求していくのは楽しい。それを通して相手の人格像を構築していくのも、わかったように感じているだけなものの、楽しい。
欲望が薄まったと一般論を言ってきたが、ルールが変わっただけで、これからは自分でやる理由を作れ!見いだせ!ということかもしれない。
だから欲望が薄まったというより、誰にでも機能していた欲望が機能しなくなった、というだけのことで、各個人がやりたいことをまず見つけていく時代になったのだろう。
自由は大変だ。