あらすじ
「わたし」は、心が壊れた女たちを預かりオーバーホール(新品時の性能状態に戻すこと)することを仕事・趣味にしている。
「わたし」は投資によって莫大な富を得ていて、働く必要がない。
金のありあまった男達は、女の生活費を負担し、金を与え(飼う)、様々な行為をさせられ、心のバランスを失った女は、「わたし」のが預かりオーバーホールする。
同時に四人の女をオーバーホールする「わたし」は、彼女たちにどう関与し、関与されるのか…。
どうかしてる
何回とリピートされる奇妙な文章、経済的に力のある人たちによる壊れた倫理観、異常性癖のオンパレードで読んでいて気持ちが悪かった。
ハードなSM、犬猫用の檻で生活させられる…などきりがない。
単なる趣味ではまず最後まで読めなかっただろう。
だが読んでいるうちに、やっと波に乗ってきた、波長が合ってきた。
その根の深さ、精神にある深く暗い穴を埋めるための必然性…のようなものを感じてきた。
異常なことでも、表面的にすぎず、何事にも理由がある。
自分でやってみようとは全く思わないが、全く無関係だとも思わない。
特定の状況に置かれたら、そういうのに目覚めてしまうのかもしれない。
「わたし」はどういう状況なのか?
この小説は、オーバーホールしている女の一人である、ミユキを探し庭園を歩き回る「わたし」の回想と、現実(だと思う)の庭園の描写で構成される。
回想では、預かっている4人の女との出会いのきっかけや様子を描いていて、各々のエピソードは現実的である。
ただ同じ文言を繰り返していたり、ほぼ重なった説明を別の箇所でしたりと、回想の主人たる現実の「わたし」への違和感は高まっていく。
現実の庭園の場面では、同じことばを繰り返し、そこまで来た方法を覚えていない、ただメモ書きだけがあって目的だけわかる、まさに夢の中の出来事のようだが、感覚や客観的な思考によって夢でないと強調される。
よくわからない。
特徴は無力感
「わたし」の特徴は、無力感だったように思う。
金も時間もあるのだが、エネルギーを感じない。
オーバーホールを始めたのも、どれだけ人に関与できるかを知りたいかということであって、彼女たちを救いたいと思ったわけではない。
金融関係の専門家ではあるが、それが具体的にほかのもので実践的に役に立っているわけではない。
比喩として説明に用いるだけだ。力強く論理的な説明だが、説明にすぎない。
ほかの村上龍作品の登場人物が、尖った専門性と怒り、荒削りさを持っているのとは対照的だ。
よく表現される、過去にあったような強烈なダイナミズムの反対の、現代的な洗練さ、無力感を描いた作品として、位置づけることができるだろう。