ふとした記憶の再生は幸福感につながる
私には定期的に行く場所というのが学校か、バイト先のコンビニ、近所のスーパー、しかない。
人によってはバッティングセンターとか、カラオケとか、喫茶店とか、ゲーム屋とか、レンタルビデオ屋とか、ゲーセンとか、服屋とか、質屋とか、古本屋とか、図書館とか、ホテルとか、映画館とか、ビリヤード屋とか、ピザ屋とか、ハンバーガー屋とか、ファミレスとか、100円ショップとか、病院とか、駅とか、オーディオ屋とか、文房具屋とか、日焼けサロンとか、色々趣味趣向に応じていろいろあると思う。
それがなんだか羨ましい、自宅にいるととにかく記憶に残らないが、充実していないというわけではないと思う、一応満足はしている。
記憶に残すために人生をどう過ごせばいいのか、を考えることが多い。
今までの人生の記憶を思い出すことが少ないからだ。
よく言われるように記憶はないのではなく、匂い、音、キーワード…きっかけが必要だということだが、きっかけを体験することが少ないし、何も変わったことが起きていていない気もする。思い出す価値もない、というわけだ。
記憶を残すためによく生きようと思う、というのは変だが、記憶に残るような出来事がたくさんあるような人生と充実した人生は、だいたい同じことのような気もする。
だが能動的に記憶に残そう!というのは変だし、動機として成立しない。
もっと自律的に楽しくてやる、みたいなことが結果として記憶につながるもんだと、思う。
温泉に行ってみた。
夜何をするにも集中できなくて、そういうときはたいていゲームをしたりアニメを見たりするのだが、それらに意味がないように思えてきて温泉に行った、なぜ温泉か?はわからない。
何もやる気が出ないところに偶然温泉が浮上したわけで、もしインターネットがない時代に生きていたら日常的に外に出ていただろうし、人とも会っていたかもしれない。
インターネットで外に出る優先順位が下がるのは他人も同じことで、そこに無理に割り込むことはしたくないし、自分も割り込まれたくない、と思う。
要するに自分にも他人にもほかにやることがある、と考える。
この2つで、私の社交性は死んでいるように思う。
温泉は歩いて3分の位置にあるが、2回しか来たことがない場所。
久し振りに湯に浸かった、そこの湯は狭いからかやたら熱い、じっと壁のシミやブツブツいう泡を見ていると熱さに眩み、時間感覚がわからなくなっていった。
熱いのは気持ちがよく、やはり、湯に浸かるといいなと思った。
当然かもしれないが、浸からないのに慣れてしまうと別になくても気にならなくなる。
考えてみれば大量の熱湯を巨大な水槽に張るというようなリッチでムダなことで、古代ローマの皇帝もやっていたようなことだ、それが楽しくないはずがない。
300円ちょっとの価値はあるなと少し感動しながら、元を取ろうと思って長々といた。
上がったときの爽快感は格別で、体がだるかったが帰りの秋風が涼しかった。
プールの後の、体は熱を持ち疲れているが空気の常に新鮮な場所に触れているような爽やかな感じがあったな、ということを思い出した。
漠然としたもので特に具体的な何かを思い出したわけではないが、感覚に記憶があって、嬉しくなった。
思い出すだけで、嬉しいというか、懐かしく、安心した。
記憶は五感すべてで記憶し、ふとした刺激で再生され、別に個別のエピソードでなくてもこの感じ前にもあったな、程度でもいいような気がした。
自由を最大限楽しむには新しいことに挑戦するモチベーションが必要だと思う。
何もないとパソコンの前に坐っているだけになる、まあそれでも仕事や勉強をすれば誰も困りはしないのだが、つまらない。
モチベーションを生むには、発見したり、自分で意味を見出したりしないといけない。
今回の発見、曖昧な感覚でも懐かしくなる―は、多少は新たな場所に行くモチベーションになるような気がする。